立花美樹の主張

立花美樹です。本来、このブログは汀こるものの個人ブログですが、少しだけ場所をお借りすることにしました。


まずはこのニュース記事をご覧ください。


山本KIDが釣り人にブチ切れ「食わないのに何で殺すんだ?食わないんなら海に返せ!」


「オッサンはその魚を針の付いたままひと踏み。内臓は外に飛び出てまだ苦しそうに
生きようとパクパクしてた。持って帰って食うのかなと思いきやそのまま運河にぽいっ」と
書いているKIDは、その釣り人に「食わないのに何で殺すんだ?アイツだって必死に
生きてんじゃん!俺らは生きるために命を貰うんだろ!違うの!?食わないんなら海に返せ」と優しくブチギレ(同ブログより)た。
http://news.livedoor.com/article/detail/4405240/


その釣り人は「アイツは釣りたくなかった。俺の餌食いやがって」と釈明したようだが、
「こんな悲しい事をほとんどの釣り人は平気でやってるんだよな。
釣ったら海に返さずその辺に捨てて苦しませて死なせて」と、KIDの嘆きはとまらない。


「これからショボい釣りのプロはディスかましてこーかな。次会って同じことやってたら
腹にフルで一発パンチ食らわして。海に落とそ。それでお巡りさんに捕まってもしょうがない」
と、エントリーの後半には、KID流ともいえるやや物騒な発言を絡めながらも、
その実直な性格を垣間見せた。


どう思いましたか?


結論を言います。
魚を殺せない人は釣りをしてはいけません。
釣りは元々そういう遊びですから、見たくないなら見ないようにしましょう。


殺そうと殺すまいと、食べようと食べまいと、魚は釣り針にかかった瞬間から弱ります。
まず顎に釣り針が刺さるわけですから、そこから細菌が侵入すれば簡単に死にます。
そして網で体表をこすれば細かい傷ができ、ここからも感染症になります。
彼らの表皮はとても繊細なので、人間の36度の体温に触れただけで火傷と同じ状態になります。
乾いた手で触れれば更にダメージは大きいでしょう。
飼育目的で捕獲する人は、大抵ビニール袋を使ってバケツなどに移します。


外来魚問題とかキャッチ・アンド・リリースとか、そういうことではありません。
目的が何であろうと、釣り竿を振ったその瞬間から釣り人は他の動物の生命を自らの娯楽のために弄んでいます。


別に悪いことではありません。
「野生動物は食べる分しか殺さない」というのは自称モラリストがよく言う嘘です。
ネコを1匹飼ってご覧なさい。
彼らがどれだけ、害のない小動物を弄んで殺すか。
ネズミだろうと小鳥だろうとトカゲだろうと。
意外とすぐにとどめを刺さないし、仕留めた獲物を食べないんです。
そもそも満腹中枢が鈍く、自分が空腹かどうかもわからない生き物はたくさんいます。
こういう生物は食欲と殺戮の欲求の区別がつかないのです。
別に悪いことではありません。
歌を忘れたカナリヤが悲しいように、狩りをしない肉食獣なんてぼくは見たくありません。


食べればいいというものでもありません。
プロの漁師さんだって、売り物にならない外道は殺して捨てます。
エイなんかはあんまり食べませんが、毒針を持っていて刺されて死ぬ人がいるので、殺さなければ漁師さんの命が危ないのです。
中華の高級食材・フカヒレはサメの鰭ですが、サメは肉にアンモニアが含まれていておいしくないので、普通、殺して鰭だけ取って他の部分は捨てます。
逆にアメリカ人はストーンクラブの「利き手」のハサミだけ取って、生かしたまま海に帰します。
どうせそこしか食べないし、カニのハサミは再生しますから。
これは、どちらが正しいとかそういう問題ですか?
傷むのが早いサメ肉を流通させるのは難しく、アメリカ人は蟹味噌のおいしさを知らないだけです。


そもそも釣りは、必要もないのに生命を弄ぶ野蛮で残酷な遊びですか?
違うでしょう?
手塚治虫養老孟司の趣味は昆虫採集ですが、普通昆虫採集で得たものを食べる人はいません。
彼らは野蛮ですか?
羊たちの沈黙』で随分悪いイメージがついてしまいましたが、蝶の標本のコレクターが必ず連続殺人鬼というわけではありません。


菜食主義も関係はありません。
有機農法だろうがガーデニングだろうが、虫を殺さずに植物を育てることなんてできません。
イナゴやハチがどれほど多くの人間を殺してきたかを思えば、農業は他種族との戦争とも言えます。
ガーデニングというのはその“戦争”を遊び半分で愉しむ悪趣味ということになります。


「食わない花のために芋虫を殺すな!」
「そんなん俺の勝手じゃ!」


こうなるわけです。


一度釣られた魚は、海の中でゆるゆると細菌に冒されて死ぬか、地上でとどめを刺されるか。
いずれ生命を弄ぶ行為に過ぎないのなら、どちらを選ぶかは釣り人の自由というものでしょう。
そして山本KIDさんという人をぼくは知りませんが、この人がそれを見てどう思ったか。
それもまた自由です。


どちらも善ではなく、悪でもありません。
こういうことを善悪で判断することそのものが偽善だと思います。
いい大人が大人同士で自分の価値観を押しつけ合うのは、見苦しいとは思いませんか?
釣り人が魚を殺すのを「悲しいこと」って、極論じゃないですか?
この人はクルーザーに乗っていたわけですが、クルーザーのスクリューに巻き込まれて魚が死んだり、騒音でクジラやイルカが難聴になったり、それだって十分に悲しいことです。
男性が意中の女性に贈る美しいバラのために、園芸家たちがどれほど殺虫剤を撒くか。
生物が他の生物と関わるのは、基本的に悲しいことばかりです。


小学生がトンボを捕まえてカゴに入れておくと、特に悪意がなくても1日保たずに死んでしまいます。
大人は彼らが残酷だと責め立てるよりも、どうしてトンボが死んでしまうのか、そのことを一緒に考えるべきではないでしょうか?
すぐに死んでしまうから、また新しいトンボを捕まえて、また死なせてしまって、を毎日繰り返す子供もいるでしょう。
死なせるのが嫌だから昆虫採集をやめてしまう子供もいるでしょう。
長生きさせる方法や、本格的な標本の作り方を勉強する子供もいるでしょう。
特に何も考えずに忘れてしまう子供もいるでしょう。
どれも間違ってはいないはずです。
忘れたように思っても、トンボの死は子供の心に何かしらの影響を残します。


釣り人が残酷だという感想を抱くのも個人の自由ですが、殴って海に突き落とすのはもう戦争と同じじゃないですか?
他の動物のために、同じ人間同士で殴り合ってまで喧嘩をするなんて何かがおかしくないですか?


こういう主張を見る方が、ぼくにとっては「悲しいこと」です。